移民たちの桜2


はじめに

和太鼓を披露する日系人
和太鼓を披露する日系人
 ブラジル連邦共和国サンパウロ州サンパウロ市へ桜を訪ねた。桜の開花にあわせ、桜祭りの盛んに開かれる7月末~8月上旬に訪ねた。日系人はブラジル全域に住んでいるが、中でも商業都市サンパウロ市は特に多い。 桜祭りはサンパウロ州内でいくつも行われている。中でも大規模なのが、サンパウロ市営カルモ公園で開かれる桜祭りで、その歴史は30年になり、2011年度の集客は1万人だった。 祭りでは和太鼓の演奏や盆踊りが紹介され、和食の屋台も出店していた。年々規模が拡大されていくのは、日系人が勤勉で正直者と評判も良く、財界政界へ進出し、ブラジル社会に深く根を下ろしている証で、日系人たちの桜を取材した。

移民たちの桜

 サンパウロ市営のカルモ公園で、桜祭りが開かれるまでの道のりは、容易なものではなかった。まず、移民の歴史について触れる。
 移民の歴史は、1885年(明治18年)に日本とハワイ王国との国同士の契約によりサトウキビ畑で3年の短期労働がはじまりだった。その後、北米へ自由に移民ができるようになったが、1900年頃(明治33年)からアメリカでは排日気運が高まり、新しい移民先としてブラジルが選ばれ1903年(明治41年)781人がブラジル移民の先駆けになった。それから2008年までの100年間に、合計2万5千人が移民した。現在日系人は1400万人いるといわれるが、その中には日本で就労中の人や既に日本で移住した人もいる。現在では日本から移民する人はいない。
 移民のはじまりは、戦前は高賃金に魅せられた短期労働の出稼ぎだった。記録によれば広島県では、1885年以降にハワイに渡った20代の若者が故郷へ送金した年間金額は、当時の熟練大工の年収とほぼ同額だった。出稼ぎ移民の多い地域は、彼らの送金や貯金がその地を潤した。その影響は地域や親戚などへ広がった。
 戦時中は移民政策が中止になったが、1953年に再び移民が開始された。戦後の貧しい日本は人口増加現象で失業率も高く、地方では次男以下の兄弟には農地が不足だった。農業移民たちの多くが、高校や大学の移民のための学科があって、卒業と同時にブラジルの大地主になることを夢見て移民した。その当時ブラジルは日本より景気が良く、移民募集をしており、日本政府が積極的に移民者を送り出した。
 企業の海外進出は1950年代で、ブラジルでは総合商社やブラジル・ヤンマー社やブラジル・トヨタ自動車などが設立された。1950年後半は、工業従事者とその家族が多く移住した。
桜祭りの会場で、桜の苗木を販売する
日系人グループ
 サンパウロで戦後移民の日系1世たちに取材した。誰もが語りながら涙を流す。移民直後は電気も水道もない生活、日々の過酷な労働などで帰国した人も多かったという。そのような暮らしでも、苦労を噛みしめ残った人は手紙とラジオの短波放送だけが日本との繋がりだった。日本が恋しく、春になると桜が見たかったという。
 その頃ブラジルに少本の桜があって、そこで花見は開かれていた。移民したての日系人にとって、花見が癒しの場だった。当時の花見は、花の開花に関係なく、決められた日程通り日本人会がチャーターしたバスに乗り、桜のある処に出かけた。
 心から桜を求めた日系人たちは、花見ができる場を作り上げた。それは日系の21団体が一致団結し、1978年にサンパウロ市の広大なカルモ公園内に、日系人の桜園をつくった。桜祭りは移民73年記念の1981年で、その年に(財)日本さくらの会から日本の桜が贈られた。残念ながら日本産の桜は、ブラジルの気候風土に適応困難で、一部が現存するが、花は咲いていなかった。
 見ごろを迎えている桜は、ブラジル産の桜で、その代表的なものとしてヒマラヤザクラが700本、オキナワザクラやユキワリザクラなど1500本ある。今でも日系社会はますます繁栄し桜園に新しい苗が植えられ、桜祭りも拡大している。しかし世代が変わるごとに日本語の話せない人が増えており、桜の保全や桜文化の伝承など課題も多い。

ブラジル産桜の誕生

ユキワリザクラ
 サンパウロ市の気候は、北半球で言えば台湾のような亜熱帯気候で、冬が過ごしやすい。6月は南半球の冬だ。日中は暖かく、ブラジル産ヒマラヤザクラが咲きだす。花は濃紅色で、大木になる桜だ。このヒマラヤザクラは、品種の同定調査もされておらず、通称ブラジル産ヒマラヤザクラというべきだろう。
このブラジル産ヒマラヤザクラのルーツは、ミナス州のビソーザ農業大学のブラジル人教授が、その種子をポルトガルからブラジルに持ち帰ったのが始まりとされている。その大学教授の下で学んでいた日系人行方(なめかた)氏が種子に興味をもち、日系人の農業者佐藤氏が育種した。桜を欲しがる日系人が多く、その需要を満たすため商品化した。その結果、今やブラジル中に植えられる人気の品種となって、農場や街路樹に植えられていた。
 次に7月になるとオキナワザクラと呼んでいる桜が、濃紅色の花を咲かせる。この花の由来や品種名は定かではないが、カンヒザクラのような花だ。
 最後は7月末から8月上旬に、濃紅色で一重咲きのユキワリザクラと呼ばれている桜が咲く。このユキワリザクラは、花びらがソメイヨシノのようにハラハラ散る。1960年代に移民した人々に人気がある。

ユキワリザクラ

ユキワリザクラ原木を背に小野秀蔵と幸子夫人
 ブラジル産のサクラの中で、唯一原木を訪ねることができたのは、ちょうど開花を迎えたユキワリザクラだけだった。
 ユキワリザクラの原木は、サンパウロ州アッチバイア市タンケ部落に住む小野(おの)秀蔵(ひでぞう)氏と幸子(さちこ)夫人の庭にある。
 アッチバイア市はサンパウロ市から35キロ西南にあって、日系農場が多い。この地に桜が来たのは、小野秀蔵氏の父親 秀(ひで)茂(しげ)氏が1974年に日本の高知県須崎市に里帰りした際、親戚の庭にあった桜の穂木を、スーツケースの中に隠して持ち込んだことにはじまる。穂木を庭に植えたら花が咲いた。近くに住む日系農業古久保(ふるくぼ)氏が、その花を見て、苗木を商品化したらブラジル中に普及した。
 小野夫妻は、70歳代後半のブラジル生まれの日系2世。小野秀蔵(ひでぞう)氏の両親は高知県の出身で、昭和初期に移民した。当時の移民たちは、帰国を前提にブラジルへ渡っており、子供の教育は帰国後に備えて、日本語重視の教育を施した。ところがその世代の人々は、相次ぐ戦争によって帰国できなかった。小野夫妻も流暢な日本語を話す。小野家の3世になる娘さんが日本で就労しており、彼らは娘さんに会うために、初めて親の祖国である日本に行った。
 そこで1ヶ月間滞在し、各地の桜風景を見て、その数の多さや美しさに感動し、桜文化に触れ、ようやく桜が好きな日系人の気持ちがわかったという。
 小野家の庭のユキワリザクラは満開で、帰りにその枝をいただいた。幸子夫人は日本で見た桜風景が忘れられないという。そして、娘さんが安全な暮らしをもとめて日本に永住することになったと淋しげに語った。ブラジルの治安は悪く、娘が安全な場所で子育てをしたがる気持ちが理解できるといっていたのが心象的だった。
 

終わりに

 戦後日本は奇跡の復興をはたした。1980年代になると、ブラジルで、戦後移民1世を対象に、日本で就労する人を募集した。その時期は、ブラジルが経済低迷時期だったことと重なり、日系1世が多く来日し、その後、日系1世や3世は続々と来日した。そして、日系ブラジルが住むコミィニティーが日本で誕生した。ブラジルからはサッカーや音楽が入り、今ではブラジルと日本との縁は、双方向につながっている。日本の花見にも多くの外国籍者が集まる。
 世代が変わっても変わらないのは、日本人にとって桜は単なる木ではないということ。大げさにいえば、桜のある風景は、人生の折々と深く関わり、人々の心をゆさぶってきた。
 移民たちは国の政策や経済で翻弄されてきたが、たくましく生き抜いてきた。このように強い日系人もまた桜の感動が忘れがたい。彼らは移住先に桜を植え日本と縁を繋いでいる。その美しい桜がたちまちブラジル中に普及し、日伯の文化交流の輪を広げている。
 日系人がブラジルで果たした役割は開拓や工業化だけでない。桜を介しての文化普及でもあった。桜が日系人の心を支えたともいえよう。 今後 たとえ政治や経済が著しい変化をもたらしても、今まで桜を介した文化交流の根はもはや深くおろされている。桜の歩みは、人の歩みでもある。

桜の工房アトリエさくら代表
岡村比都美
桜の科学 17
当ページの 「移民たちの桜 ~ユキワリザクラのルーツを訪ねて~」は日本櫻学会発刊の<櫻の科学>に掲載されました。
『櫻の科学』17 2012年10月31日発行
編集者・発行者 日本櫻学会
価格¥1,000(税込)
<下記にて購入できます。>
日本櫻学会
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